しばらく伊達家の話ばかりしてきましたけど、恐らく伊達家との交渉がうまくいかなかったせいで、エース家紋ビスケットの素材になり、多少なりとも脚光を浴びられる最上家についても、もう少し紹介しておこうかと。
最上義光が関ヶ原の戦功で山形57万石の領主になれたことは「
エース家紋ビスケットの謎(2)」で紹介した通りです。義光は1614年に没したのですが、その後最上家にお家騒動(大名家の内紛)が生じて、義光の没後わずか8年の1622年に山形57万石は改易となってしまいました。
ところで、伊達家にもお家騒動があったことは「
エース家紋ビスケットの謎(4)」でも述べた通りです。同じお家騒動を起こしたのに、最上家は改易され、伊達家はそのまま。この違い、どうして生じたんでしょうね。まぁ、歴史上の出来事というのは一つ一つが異なりますから、様々な偶然の結果だとも言えるんですが、お家騒動が起きた時期の違いは大きかったと思います。
最上騒動が生じたときは、まだ江戸幕府が成立して20年も経っておらず、戦国最後の合戦である大坂夏の陣からは10年も経っていません。徳川の天下がまだ不安定だったこの時期は、武断政治の時代と言って、口実があると幕府は盛んに大名を取り潰したんです。
ところが、どんどん大名を取り潰した結果、仕官先を失った浪人が溢れてしまいました。現在の状況に喩えれば、企業が潰れすぎて失業者が増えてしまったようなもの。現代でも、失業者が増えると、生活に困った彼らの一部は犯罪に走ることがあります。武断政治の結果も、似たような社会現象が生じたわけです。なので、16世紀後半から幕府は文治政治と呼ばれる政治方針を転換して、大名の取り潰しを抑制するようになりました。
伊達騒動は、その転換後に起こった。仙台藩は大藩で取り潰しの影響は大きいですから、文治政治の政治方針の下では、幕府は取り潰したくなかっただろうと思います。結局、最上家の騒動は時期が悪く、伊達家の騒動は時期が良かったということでしょうね。
続きは次回に。
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